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Vol.59

ダンサー・振付家/青木尚哉

 

「一人でも観てくれる人がいるのなら

                                    踊り続けたい」

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Noismダンスカンパニーの設立メンバーとして、2004年から2008年まで活躍ののち、自身のメソッド「ポイントワーク」を開発、全国各地でのワークショップを開催しているダンサー・振付家の青木尚哉。

コンテンポラリーダンサーの第一人者としての知名度も高く、業界でその名を知らない人はいない。ダンスとの出合いやこれまでのダンサーとしての歩みを、熱く丁寧に語ってくれた。

 

そもそもダンスをはじめたのは当時高校生の姉の影響という。

「姉は学校のモダンダンス・クラブに所属していたのですが、身体能力がどんどん上がっていくのが、かっこ良く見えたんです。脚が頭の上まで上げられるようになったり、変化してゆくのを目の当たりにして、ダンスに興味を持つようになりました」

 

そして、16歳でジャズダンス教室の扉を叩く。

「もうカルチャーショックでした。OLのお姉さんたちがハイレグ姿で目の前で踊っているんですから。男子がぼくだけだったので可愛がってもらいました。先生は、その当時にあった新宿コマ劇場のバックダンサーでした。

お使いを頼まれて劇場の舞台裏に潜入する機会もあって、カツラ職人、衣裳デザイナーなど、プロの職人たちに出会って、そこにも衝撃を受けました。舞台や劇場の世界にますますのめり込むようになって、仕事にするなら『日舞もバレエもなんでも学びなさい』の教えどおり、様々なジャンルのダンスを習いに行きました」

 

半年後にはバレエ教室にも足を踏み入れる。

「早川恵美子・博子先生に学びました。正直、最初のころのバーレッスンは肉体的にも精神的にも辛かった。でも通い続けたのは、基本的なテクニックがダンスには必要だと分かっていたからです。それと、純粋に身体を動かすのが楽しかった」

 

そして、高校卒業後の進路を迎える時期になった。

「バレエの先生からは、進学校に通っていたこともあって大学受験を勧められたのですが、ダンサーになりたいというぼくの決心は変わりませんでした。

でも、父親の反応は『確定申告の申請書に、ダンサーという職業はない』と大反対(笑)。それが理由のひとつだったみたいですが、当時、舞踊家は職業と認められていなかった。

ぼくが学生の頃の父親は、地域の教育委員会、祭囃子保存会、消防団の活動もこなす、スーパーお父さん。もちろん地域で知らない人はいない。それが子供からするとプレッシャーでもありました」

 

父親からは、「2年間やってもいいけど、そのあとは大学に行きなさい。その期間にダンサーになれなかったらあきらめなさい」という条件を出され、2年間は口もきかない状態だったという。

 

 そして2年後、久しぶりに父親と対峙した青木青年は、こうきっぱり言い放つ。

「2年間では分からない世界であることが、2年間で分かりました」

以降、ほぼ勘当のような状態になり家も出て、週に10クラスあまりのダンスレッスンをこなしつつ、隙間の時間でバイトと掛け持ちの生活が続いた。

 

そんな生活が、あるとき一変する。

「22歳のとき、当時東京バレエ団の溝下先生のオープンクラスを勧められて受講しに行きました。そこで、受けていた先輩方のものすごいスキルの高さに感動し、一緒にレッスンすることで確実に自分のスキルも上がっていくのを体感したんです。

同時に、これまでのようなやり方でやっていたらダメなんだなと気づき、バイトを全部辞めました。そうしたら、ダンス関連の仕事を頼まれるようになったんです」

バイトを一切辞めたことで、周囲にダンスへの本気度が伝わったのかもしれない。

 

バレエの発表会などに出演するようになり、ダンスで生活できるようになり始めていた頃、また新たな出会いが訪れる。

「英国ロイヤル・バレエ学校でも教鞭をとっていたデビッド・ピックン氏のバレエクラスを受けたとき、『この先生のレッスンを100%受けたい!』と瞬時で感じました。彼は、その時のぼくの身体のつくりを見たときに、これまでこういう風に踊ってきたんだねとすぐに見破ったんです。

そのときのぼくは、これはジャズのスタイル、バレエのスタイルと踊り分ける感覚を持っていたんですが、デビッドは、運動というひとつのアイディアとして、すべてをバレエに盛り込めるべきだと導いてくれました」

 

それまでお世話になったバレエの先生方には「しばらく行けません」と告げ、フリーランス・ダンサーとして再出発する。

「その当時は、僕のような駆け出しレベルでフリーというと、危険人物扱いです(笑)。今でこそ、フリーランスは普通になってきますが、その時代の若い人は皆きちんと先生やバレエ団についていて、フリーランスはほとんどいなかった。一旦は日本のバレエの輪からははじかれる形になってしまいました」

 

 

~いくつもの出会い~

 

 デビッド先生ともう1人、強い影響を受けたのが、モーリス・ベジャール・バレエ団のジル・ロマン。

「ベジャール作品の『ピラミッド』を観たときからのファンだったんですが、ジョルジュ・ドンの追悼として、急遽ジルが『アダージェット』をソロで踊ったんです。そのときほど、舞台で踊るダンサーに親近感を覚えたことはなかったかもしれない。

まるで自分に語りかけられているようなそんな感覚。一緒に旅をし、その後、彼はどうなったんだろうと話しかけたいような妄想と衝動にかられました。

舞台の幕が降りたとき、前の座席に座っている人の顔の真横にぼくの顔があったことに気づいて、『あ。すいません!』って(笑)。それぐらい前のめりに舞台に入り込んでいました」

 

 さらに、大きなターニングポイントが待ち受けていた。

「ある日、1日に3回もNoismのオーディション情報がぼくの目の中に舞い込んできたんです。応募資格が『30歳まで』。しかも、よく見るとオーディション日がぼくの30歳の誕生日だったんです。これはなにかの縁があるに違いないと(笑)。金森穣というすごい人がいるとすでに聞いていました。第一印象は厳しかったけど、怖い人ではなかった。

Noismでの経験を一言で言うならば、最高でした。もう他の仕事を掛け持ちしなくていいんだ、と。プレイヤーに専念できる恵まれた環境で、あの4年半は素晴らしかったと思う。あれがなければ今の自分はない」

 

 その特別な環境に別れを告げるのは容易ではなかったという。

「Noismをなぜ離れたか、今でも上手く説明できない。ぼくは褒められたら嬉しいタイプなので(笑)、お客さんから、あの人すごい!の声に応えたくて、やり過ぎてしまうところがあったと思う。穣さんが、『あまり酷使しないように』って心配してくれましたが、やりすぎるところが自分のパフォーマンスだと暗示をかけていた部分があったと思います。

当然身体はボロボロになって、首や腰の具合が悪化してしまい、限界ギリギリの表現はやはり消耗しました。結局、Noismのカンパニー・ダンサーとしての賞味期限を、自分で決めたんだと思います」

 

 そして、2012年に振付作品を発表する。

「振付家を応援するプログラムに、企画書を送りました。誰かに頼まれて発注依頼された作品を創作するのではなく、一からすべて自分自身で生み出す。この経験をしたかった。

きっかけは、ある公演を観て腹が立ったからです。ダンサーの個性が全然舞台で生かされていない。他のやり方ができないかなと思ったのが、振付への興味ですね」

 

 じつは、すでに18歳で “振付家” デビューを果たしていた。

「最初のジャズダンス教室で、自分より先輩のOLの女性たち20人に振り付けました。今思えば、創作といえるほどじゃなかったと思いますが、18歳の青年にそんな経験をさせる先生ってすごいですよね。今でもその先生との交流は続いています。

本格的な創作は、38歳から始動することになったんですが、プログラムのプロデューサーからはダメだしの連続。ぼくは褒められて育つタイプなので、もう二度と創りたくないと思った(笑)。それなのに不思議ですね、今でも続けているなんて」

 

 振付家としての始動がターニングポイントになったことは確かだが、じつはもう一つある。

「彼女(娘)との出会いも大きなターニングポイントでした。ぼくの父親からは、『ダンサーになるんだったら、結婚や家庭は一生あきらめるんだな』と覚悟させられましたし、ぼく自身も、社会性を持ちながらアーティストになってはいけないと信じていました。

でも、子供が生まれたことで、子供関係の仕事が増え、それが楽しく感じられるようになってきました。子供の身体がどんどん成長し、変化してゆくのを見るのが楽しい。今10歳なんですが、この前『ダンスやめちゃうの?』と聞かれて、ダンスやっているパパがいいと言ってくれているのかなって、すごく嬉しかったですね」

 娘の誕生に父親も大喜びのようで、今はダンサー・青木尚哉の活躍も応援してくれているという。

 

 振付・ダンサーとしてのモチベーションを伺ってみたい。

「モチベーションという言葉はもともと好きじゃないんですよね。上がったり下がったりという気分に左右されたくない。ずっとやりたいことだから。

 ぼくは体型のせいもありソロで踊ることが多かったんです。王子も踊ってみたかったけど、姫となってくれる人がいなかった。でも本当は、ぼくはもっと人と踊ったり、繋がっていたかったんだと思います。人と一緒にやりたいものを続けてゆきたい」

 その思いが、グループワークプロジェクトに繋がってゆく。

 

~一人称から三人称へ~

 

「身体と舞踊の関わり」を追求するグループとして3年前に発足した青木尚哉・主導のプロジェクトだが、そのメンバーの審査基準がなんともユニークだ。

「基本的にオーディションはしません。作文と面接で決めます。あえて基準を言うなら、“覚悟”を見ていますね。身体の動きを見ないで決定しますが、半年すれば確実に身体が変わるんです。役者の方もいますよ。

ぼくにとってのダンスは、回って飛ぶだけじゃない。身体について、ダンスについて、いっしょに考える時間を共有したい。ほぼ全員が企画や振付に関わります。

ぼくはそれまで振付について、自分の中から作品をつくらなきゃいけない。苦しみから生まれるものだと信じていたんです。でも苦しくなければ作品が生まれないと今は思いません。

このプロジェクトを通してメンバーと積み上げてゆくうちに、これまで一人でやってきたことが、二人称、三人称と広がってきた実感があります。今は情報がたくさんある中で、『これに集中していっしょにやろう』と絞ることで自由度が増すのではないでしょうか」

 

 青木尚哉にとってダンサーの定義とは?

「感度力でしょうか。グループでは、ひとつの目標として、身体感覚を共有できるかどうか。そして、それを作品にして落とし込めるか、としています。“心が躍るダンサー”が好きですね。逆に言えば、めちゃくちゃ動いてもお客さんの心にまったく響かなかったら?

心が動かなかったら身体も動いていないも同じこと、とぼくは思います。ダンスの解釈ってもっと広いし、“ダンス”という枠そのものをとっぱらいたい。“身体表現”という言葉の方がしっくりきますね」

 

 そして、そのグループワークプロジェクトの公演が3月24日(火)から6日間に渡り開催されるが、そのスタイルもユニークだ。

「今回は、“投げ銭制”にしてみました!予約がないと観れない世界をとっぱらいたかった。チケット無料だったら、気軽に来れる人も多いんじゃないかな。これまでダンスを観たことがない人も来てほしいと思っています。ダンス界では画期的ともいえるこのプロジェクトを実現するために、クラウドファンディングで沢山の方からご支援を頂きました。

建築家・長谷川匠さんが舞台美術を担当します。長谷川さんとのコラボレーションも、あっと驚ける斬新さで楽しんでいただけると思います。

 本公演のタイトルの『LANDSCAPE』は、景観や風景という意味です。景色は見えるものを指しますが、風景は目に見えなくてもそこに存在するものすべてを意味するようです」

 

 2018年の作品『atlas』(地図)から、視点を変えた『LANDSCAPE』(景観)は、平面から上昇し、さらなる発展を見せてくれることだろう。

「インプロ的な要素ものもあるので、毎回違うし、何回観ても面白いと思います。何度でも来て、毎回楽しんでもらいたい」

 

 アーティストとしての美学と、これから目指したいものもシェアしていただきたい。

「ぼくの美学は、『今の瞬間にこだわるよりは、古いものや、少し先の未来を想像しながら予感したい』かな。これって、コンテンポラリーダンサーとしては、あるまじき発言?(笑)

一昔前の日本は、自然と人間の一体化がもっと濃密だったのではないかと思います。歴史が感じられる場所や物が好きですね。そういう思いもあって、歴史ある古民家で、定期的にイベントを開催しています。3月13日(金)には、『LANDSCAPE』について語るプチダンス付きトークイベントがあります。

4月には「クラフトビールを片手にダンスをみよう!」の開催が決定しています。そしてこれからも、『振付』っていったいどういうことなんだろうと考えていきたい。音楽がなくても踊るとか、色々な意味で振付も変わってきている。

こうだと決めつけたいのでもなく、新たな発見をしたいわけでもないのですが、続けていくことで変化を見てゆきたい。

一人でも観てくれる人がいるんだったら踊り続けたいと思っています」

●青木尚哉 公式URL

https://zero-dance.com/naoya_aoki

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