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​DancerWeb
Vol.48
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金田あゆ子 Kaneta Ayuko
世の中にダンスがあるべきだという社会にしたい」
バレエダンサー・振付家

 1998年ハンブルグバレエ学校留学。翌年香港バレエ団入団。帰国後、国内外多くの振り付け家の舞台で主役や重要な役を踊りシルクドソレイユ”ZED”に出演。その後、様々なバレエダンサーやコンテンポラリーダンサーとのコラボ活動を続けている。

~大人びた少女時代~

  職業としてのダンサーへの道に迷いはなかったのだろうか。
「ダンサー以外の道を選ぼうと思ったことはまったくないですね。ただ、振付も、教えることも、平行して色々やりたいと思っていました。バレエと同じぐらいに情熱を注いだものはなかったですね」ときっぱり言い切る。
「遊び感覚の息抜きで一時期ビリヤードにはまったことはあったかな(笑)」
 キラキラした大きな瞳で快活に語ってくれるが、元々は、あまり人前で話すのは得意ではなかったという。
「後輩や先輩からも近寄りがたいと思われていました(笑)。本当は、私の方が人との対話を恐れていたところにあったのですが、だから言葉を介さないバレエは、私にとって唯一の自己表現手段だったと思います」
 その内向的な一面に変化が出てきたのが、20歳を過ぎたころ。
「外部のバレエクラスで教える機会をいただいてから変わりました。人に伝えなければいけないという意識が芽生えたんだと思います」
 
 両親のもとで16歳までバレエを学び、17歳でハンブルク・バレエ学校に留学。以前、このバレエ学校以外に考えられなかったと語っていたが、どんなところに魅了されたのだろう。
「ジジ・ハイヤットの引退公演で彼女が主演だったのですが、今まで観たバレエの作品で泣いたことはなかったんです。こういう風に踊れたらいいな。バレエってすごい!と心から感動した舞台でした」
 その16歳のときの感動から、翌年には留学を果たす。
「でももうひとつの理由がありました。親元からいったん離れたかったこともあります。両親がバレエ界では結構名前が知れていたので、親の七光りと思われたくなかったですし、自分自身に挑戦したかった。無名な状態から試してみたいと思っていました。中学1年の13歳ぐらいからできるだけ早く留学したいと考えていました」
 そう決めたもうひとつの出来事もあった。


 「小学5,6年のころに受けた埼玉全国舞踊コンクールのことでした。3位に入賞し、1位の子から順番に椅子に座らされていたんですが、あるバレエ教室の先生が私を見て、『金田先生のお嬢さんね』と言われたときに、(私は名前があるんだけどな)と心の中で強く思ったことを覚えています。『金田先生の娘』という他から見る私の立ち位置を感じて、それがすごく悔しかった」
 そのときはまだ11、12歳。かなり自立心の強い少女である。その、「悔しい思い」でもうひとつ忘れられない逸話がある。
「小学校6年生のときだったと記憶していますが、今村博明先生の振付で『眠りの森の美女』のオーディションがあって、舞台出演が叶ったのは良かったのですが、ソリストに選ばれなかったのが悔しくて。何をしたらどうしたら良かったのか?選ばれたお姉さんたちと自分と何が違うのか、負けたくない意識がすごく強かった」

 その埼玉全国舞踊コンクールでの3位入賞を、先生である両親に報告しに行ったエピソードも強烈だ。
「コンクールの結果を先生に『有難うございました』と報告するのが慣習だったのですが、父親からは開口一番、『いい気になるな』と言われました。それまで決戦に残ることはなく、いきなり3位だったので、私が浮かれていたのかもしれません」
 とはいえ、小学校5,6年の女の子には厳しい一撃、と同時に素晴らしい教育方針だ。
「コンクールの結果はそのときだけのものだから、それに囚われるな、という考えからだったのだと思います。上手くいかないときには逆に救われました(笑)」

 バレエレッスンを離れたときの親子関係はどうだったのだろう。
「正直、バレエの先生と一緒に暮らしている感じでした。まだ子供だったし、どう切り替えていいか分からない。いつ両親としてみていいのか。あんなにバレエが好きな夫婦も珍しいと思うぐらい食事中も四六時中バレエの話で、いつまでたっても終わらない(笑)」

一方で、小学校ではクラスメートとあまり馴染めない感じだったと語る。
「『どうやって人は死ぬんだろう』と、いつも考えている子でしたね(笑)。幼いころから常に孤独感がどこかにあって、人間とはそういうものだろうと感じていました」
 11歳にしてかなり達観していた少女である。他方、「本を読むのが大好きで、自分自身と対話とすることを好んでいました」と振り返る。

~何のために踊るのか~

 これまでもっとも影響を受けたダンサーとして、とても身近な存在を挙げた。
「妹(金田洋子)です。同じ環境で育ってきましたが、全然違う性格ですね。妹は私のできないことをできるダンサーで、ライバルであり支えです。幼いころからお互いに常に比較されてきました。不思議と、妹が上手くいっているときに私がスランプだったり、なぜか相反している関係なんです」
性格の違いはどんなところにあったのだろう。
「私は舞台ですごく緊張するので、あまり喋りかけられたくないタイプでした。でも妹は出番ギリギリまで喋っていて、そのまま出て、本番の出来も妹の方が良い。それを見て見習って、自分にプレッシャーをかけるのをやめたんです。緊張だけで終わっていたのか、楽しく踊れるようになりました。その瞬間を楽しむことが大切ですよね」

 その後、海外バレエ留学を終え20歳ごろに帰国するが、職業としてのダンサーにだんだん疑問を持つようになっていた。踊りは好きだけど環境に馴染めない。


「自信喪失でした。ダンサーとして無理なのかもしれない」とはじめて弱音を吐いたという。
 そんなときに救われたのが、振付家・プロデューサーの島崎徹の言葉。「『あなたに踊ってほしい』。と出演オーファーを受けた。海外では、『あなた以外にもいっぱいいるから』というそっけない扱いだったのが、自分を信用してくれる人に出会ったことが、ダンサーとしての
大きなターニングポイントとなる。

 20歳半ばから振付家として活動しているが、忘れられない作品はなんだろう。
「2011年東日本大震災の年に創作した作品『絆』です。兄弟が、震災を通じてはじめて感じるお互いの違和感や結びつきを題材に、はじめて自分で台本を書き、
音楽も自分で選曲させてもらいました。この作品が創作意欲へのきっかけになりました」
 この一連の出来事が、自身のアイデンティを深く問うきっかけにもなった。
「ダンサーは、世の中にとってどういう役割があるんだろう。失われた物質的なものは、取り戻す必要があるかもしれない。でも、物質だけでも人間はたぶん生きていけない。人は、ダンスや芸術的なものが生きていくうえで必要なのではないか。何のために自分が踊っているのかを深く考えるようになりました」
 そして、その思いがさらなる気づきへと導いてゆく。
「自分が今どのカンパニーに所属しているかどうかが問題ではない。自分で何ができるだろうということの方が大事。自分でやりたければ自分で創ればいい。自分の居場所は作ればある」

 それが、自身のダンスカンパニー「ユニットシーク(UNIT SEEK)」設立(2007年)へと発展してゆく。
「海外から帰国して、自分が何者であるか分からないことへの不安でいっぱいでした。
ユニットシークが何のために踊っているか。観た人の心が楽になったり、次の日の活力になったり、良い方に向かっていくこと、そのために私は何ができるかを考えています。そういう同じ思いを持っているダンサーと出会うようになりました」

そのユニットシークの初舞台は24歳のとき。結成メンバーは森田真希、演出は当時ザ・コンボイの橋本拓也。
主体的に一からすべて自ら創作したという公演のタイトルは『あなたに愛は必要ですか?』
舞台上に楽屋がある設定で、イスと机と鏡が置いてあり、衣裳もすべて吊るしてあり、水も置いてある。つまり、実際に着替えも水分補給もすべて舞台状態で行い一度も舞台からはけない演出である。

初プロデュース公演の終演直後の感想は? 
「これ以上できない。全部出し切った感覚でした。次の日は食べることさえ億劫で、数日間しばらく寝ていたい感じ(笑)。まるで出産を経験したかのような達成感と脱力感でいっぱいでした」

~親子ゲンカの舞台創作~

もう一つ、忘れられない創作作品は、父親(金田和洋)との最後の共演となった舞台○○年の『チャイコフスキー』。
自身が主演の少女役でも踊り、父親がチャイコフスキー役で出演。楽曲は「くるみ割り人形」を用いて生オーケストラと合唱を入れた壮大スケールの舞台を率いた。
バレエに対して厳しい父親だったというが、娘の創作作品への評価はどうだったのだろうか。
「それが、割とほめてくれることが多かったんです。『あゆ子は人の心を動かす力がある。感動するんだよ』と。でも、それはあくまでも終演後です。リハーサル中は親子喧嘩で大変でした(笑)」
 具体的に言うと?
「この部分に振りがあった方がいい、と思って勝手に振付を入れちゃうんです。それも事後報告。良かれと思ってやっていることはわかるけど、せめて事前に相談して!っという具合(笑)」しかし、それだけではなかった。
「父親が出演しているはずのシーンなのに、勝手に舞台を降りてみんなに指示をはじめるんです。生徒からは、『どちらの話を聞いたらいいですか?』と言われるし、もう大変でした(笑)」
 笑顔で語るその表情に、父親と真剣にぶつかり合いながら一つの舞台を創り上げた充足感が伺える。

 そして、次なる出演舞台は、『天照道成舞降あまてらすみちなりまいのくだり)』。
天照大御神にまつわる神話をモチーフとした作品となっており、企画・構成・演出:名取寛人、構成・振付:加賀谷香、脚本:白石泰三が担う。
初演は2018年の勝願寺で行われたが、劇場での開催は今回が初となる。4月27日(土)の和光市民文化センターの舞台後に、6月末からニューヨークでの公演も決定している。
金田はメインキャストとして、アメノウズメと清姫が同一人物として描かれる役で登場、安珍(あんちん)というお坊さんに恋焦がれ、嫉妬心から大蛇(おろち)に姿を変える。


「私の役は、身体に傷を負って生まれたことを、好きな人に知られたくないと思っている。でも、嫉妬心が、隠してきた傷や感情を爆発させるんです」
出演シーンは自ら振付を担い、音楽はオリジナル曲を用いる。

 じつは、その勝願寺での初演時に大きなアクシデントがあった。
「アメノウズメから大蛇に変身する場面で音楽が止まったんです。それでも、いつか音楽が出るだろうと思いながら、風と落ち葉を感じながらインプロで踊りました。でも、スタッフに『引っ込んで』と合図されて、暗転になりました。内心、このままもう少し踊れるんだけどなあ、と思いましたが(笑)」
 暗転になった途端にスタッフの元へと走り、「とにかく舞台に出るからお願いね!」と、再び舞台へと駆け戻り、ほどなくして音楽がカムバック!
無事に舞台の幕が降りた。


 しかしながら、まったく動じない舞台度胸が素晴らしい。
「野外なら、そんなこともあり得ると思っていたから。そういう状況で何ができるか、むしろ楽しくて仕方ない。ダンサーは計算だけで舞台に立っているわけでないから私の中では焦ることはなかった。良い経験でした(笑)」
 その後日談もまた印象深い。
「『あの無音のシーンが一番良かった。ゾワッとした。あれはああいう演出だったんだよね?』という感想をもらいました。だから今回はどうしようかと(笑)。一番リアルに近づいたからじゃないでしょうか。上手く踊ろうという気負いもなかったですし、とにかく私に集中してほしい気持ちで、そのときの感情を大切に踊りました」


 今回は、野外から劇場に場を移すことで演出や振付なども再アレンジを試みているという。
「リハを重ねながら、どんどんブラッシュアップしていっています。もう少しで全貌が明らかになるので楽しみにしていてください。物語性がある作品になっていますが、あまりストーリー追い過ぎず、作品が持つ世界観を感じてほしい」
 
 今後の夢を聞いてみると、「世の中の役に立ちたい」と即答。その想いは数年前から変わっていない。
「観た人が、感性に触れるようなダンスを届けたい。世の中にダンスがあるべきだという社会にしたい」
 ダンサーとしてだけでなく、教えることについても、深い愛情と情熱を持っている。
「教えるからにはもちろん、スキルが上達することも必要ですが、それ以上に、その人の人生に関わることになるという責任感を持っています。少なからずその人の人生に影響を与えられる存在でありたい」
 ダンサーとしては?
「まだまだ踊り続けていきたい。人生は豊かになっていかなくてはならないと思うんです。常に成長していきたい。人前に立つのなら、なおさらのこと、人としての厚みを増してゆきたいと思っています」

 

『天照道成舞降(あまてらすみちなりまいのくだり)』
2019年4月27日(土) 和光市民文化センター・サンアゼリア大ホール
https://ws.formzu.net/fgen/S5439318/

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